大豊の歩み- TAIHOH Story

埔里の風景大豊加油!!復刻版
大豊加油!!復刻版
大豊泰昭の故郷、台湾埔里に広がるマコモダケ畑の風景
大豊の故郷、台湾埔里に広がるマコモダケ畑

裸足の台湾野球少年

大豊泰昭(陳大豐)は、1963年11月15日に台湾中部山岳地帯の南投縣埔里鎮で農業を営む両親の元に長男として生まれる。

「大きな豊かな心を持った、丈夫で大きな人間に育ってほしい」との願いをこめて父が大豊と名付けた。

その名のとおり、大きく丈夫に育った大豊は地元の愛蘭小に入学。

台湾の野球熱が高くなる中、その人一倍大きな体が同じ埔里の育英小野球部の監督の目にとまり、5年生のとき育英小へ転校し、野球を始める。

「その日食べるものもないぐらい家が貧しかった。

お父さんとお母さんは、ぼくが小さい時から、朝早くから夜遅くまで、寝る時間を 削って働いてた。

泥だらけになって畑を耕して、牛を引っ張って…。

それはぼくと弟に野球をさせてくれるため。

そんなことを思うと、今でも涙が出て来る。」

そんな黙々と農作業に汗を流す両親の手伝いもした。

水牛の世話、山に入っての薪づくり、農作物やあぜ道用の石を積んでのリヤカー引き、すきやくわを使っての野良仕事など。

片道2、3キロの小学校への道のりは弟と裸足で駆けて行った。

大豊の大きく頑丈な体の基礎は、そうした生活の中で作られたのである。

埔里の大成中に進んだが野球部が無く、中学二年のときにスカウトされ台中の東峰中に転校。

中学三年のとき中学野球大会で全国制覇し、シニアリトル世界大会に四番内野手として出場する。

その素質が台北にある華興高の野球部監督、方水泉に見込まれ、同校へ進学。

華興高(臺北市私立華興高級中等學校)は蒋介石夫人の宋美齢が創設した全寮制で文武両道の名門高。先輩に郭源治、大豊の一学年後輩には呂明賜がいる。

方水泉監督の厳しい指導のもと、「努力するのは当り前」という考え方を身につける。

高校二年のとき高校ナショナルチームに選ばれ世界大会で優勝。

そんなある日、方水泉監督の知人である愛知県在住で、台湾製の野球ボールを輸入していた人物が華興高で大豊の姿を目にした。

「体もいいし力量もある。できるなら日本のプロで長くプレーするためにも日本の大学に入らないか。」と大豊に日本行きを強く勧めた。

大豊は悩んだが、周囲の勧めもあり日本に行くことを決意する。

大豊の父は言ったという。

「大豊よ、私はお前が野球をやりたいと言ったときに言ったはずだ。

途中で投げ出すなと。

だから家を離れて台中、台北へと出て行ったときも何も言わなかった。

日本にも行くがいい。

より大きなチャンスがあるなら挑戦してみろ。

    —–しかし、この景色を、この郷里を忘れるな。」

大豊泰昭の故郷、台湾の中心に位置する埔里は四方を山に囲まれた盆地
台湾の中心に位置する埔里は四方を山に囲まれた盆地

台湾から海を越え日本へ

高校卒業後、兵役は免れたが20歳にならないと出国できないため、二年間アルバイトをしながら母校野球部のコーチ見習いをし、夜は日本語学校に通う生活を続け、1983年念願の来日を果たす。

直接の日本行きのきっかけとなった人物は、その後も大豊の日本での親代わりとなり、大豊が父と慕う恩人となった。

「昭和58年12月17日。

この日は、ぼくの頭の中から消えない。

今思えば、よう頑張った、楽しかったなとも思うけど、当時は言葉はしゃべれないし、しんどかったね。」

王貞治に憧れて

さかのぼって1978年の春、中学二年の大豊は中学野球大会が行われた台北球場で売られていた一冊の雑誌を見て衝撃を受ける。

日本プロ野球のスーパースター王貞治の756号ホームラン世界記録達成を大々的に取り上げたその雑誌を大豊は一週間分の小遣いをはたいて買った。

そしてこの日以来、大豊は王貞治に憧れ、王貞治に会いたい一心で日本行きを目指すことになる。

「ぼくは、王さんの野球選手としてたどった道、つまり、どんなふうに努力してあの偉大な存在になったかを知りたくてプロに入ったようなもの。」

今でも大事に保管されている、ボロボロになるまで食い入るように読んだその雑誌の紙片と、王貞治からプレゼントされたサインバットは大切な宝物である。

来日して王貞治に初めて会った時の記念写真を、大豊は財布に入れていつも大切に持ち歩いている。

名古屋商科大学では杉浦計司監督のもと、一年生から四番を打ち、愛知大学リーグでの4年間の通算成績は打率.350、本塁打24本、打点94。

通算本塁打 24本は当時の大学記録(法政・田淵の22本)を塗りかえ、愛知大学リーグ記録として残っている。

日米大学選手権に2度出場(1985年、1987年)し、 大学四年のときには全日本の四番に選ばれる。

名商大の杉浦監督は大豊がどんなに打てなくても、卒業するまで四番から外そうとしなかったという。

「お願いですから外してください。」と大豊自身が申し出てもである。

「いいか大豊、お前を育てるために使っているんや。

人間、あきらめることは簡単なことや。

だけど、それではだめなんじゃ。」

大豊の頑固なまでの真摯に野球に取り組む姿勢は、生来の気質に合わせ、幾人もの恩師によるところが大きい。

また、初めての日本は辛く涙の出る毎日だったが、野球に打ち込み、日本語にも必死に取り組んで、一年を過ぎる頃には名古屋の生活にもなじむようになっていた。

「台湾から日本に来た時の一年間は、オレはいつも泣いていた。

寒いし、金ないし、腹減るし、言葉も何言っているか分からんし。

でも、必死だった。

日本流を学ぼうと。

だって、ここは日本なんだもん。」

中日ドラゴンズに入団、プロ野球の世界へ

1988年、名商大を卒業した大豊を地元の中日球団が獲得に乗り出す。

中日球団は台湾(中華民國)籍の大豊を例外的に日本人選手枠で登録する手段として、当時の野球協約第82条(外国人選手)「日本国籍を持たないものは外国人選手とする。」の例外規定である

「選手契約締結以前に、日本に5年以上居住し、かつ日本の中学校・高等学校あるいは大学に通算3年以上在学したもの」

を逆手にとり、来日5年目の大豊を『中日球団職員』という肩書きで就職させるという策をとった。

当時の外国人選手枠は3人。この巧妙な案は当時の監督、星野仙一の戦略としてマスコミに報じられた。

これは当時、王貞治監督の巨人も大豊に接触していたからである。

大豊は迷ったが、恩師や大学の同僚、友人、弟のいる名古屋を離れないことに決め、中日球団に職員として入り、名前も日本流に改めた。

この年に巨人で華々しくプロデビューした後輩の呂明賜の活躍を横目に、室内練習場係として選手の手伝いをしながら練習生として一年を過ごし、暮れのドラフト会議を迎えたが、中日は他球団の意表をつき、大豊を2位指名した(1位指名は大阪桐蔭高・今中慎二)。

この混乱などをふまえ、後に野球協約第82条は改正されている。

「球団職員」を経てプロ入りした選手は、他にも伊東勤(西武)らの例がある。

1988年11月24日、ドラフト2位指名で中日に入団。

1989年、オープン戦で4本塁打を打ち、4月9日の開幕戦(対大洋・ナゴヤ球場)に新人ながら5番・左翼で先発プロ初出場。

すでに25歳であるため、焦りによる不振に陥り、わずか一ヵ月で二軍落ちを命じられたが、のち一軍に復帰し、101試合14本塁打をマークした。

1990年には以後2年連続となる20本塁打をマーク。

1991年、121試合26本塁打をマークし主力打者としての地位をつかんだ。

1992年の秋季キャンプ、臨時コーチの張本勲に勧められ熱心な指導を受けたのをきっかけに、一本足打法を始める。

困難とされる一本足打法に29歳の挑戦は無謀といわれたが、

翌々年の落合博満が巨人へ移籍した1994年にはファーストのポジションを獲得し、130試合フルイニング出場、打率.310、38本塁打、107打点をマーク。

本塁打王と打点王の2冠とベストナインに輝き、見事にその打法を開花させた。

1995年は左わき腹肉離れで戦列を離れる間、高木監督がシーズン中に辞任。成績も106試合24本塁打と期待を大きく裏切るものだった。

1996年は129試合に出場、再び38本塁打をマークし「恐怖の7番打者」と呼ばれる。

1997年のナゴヤドーム元年は、打撃不振や背筋痛での戦線離脱で95試合12本塁打止まり。

1998年にトレードで阪神へ移籍するが、不振によるスタメン落ちや腰部挫傷で登録抹消など、チーム2冠とはいえ99試合21本塁打、61打点と不本意な成績に甘んじた。

1999年は打法改造に取り組み、一本足から摺り足へ。

左の代打の切り札として活躍する。

首脳陣批判騒動や腰痛による登録抹消もあったが、後半戦は球団新記録となる26試合連続安打をマーク。

78試合18本塁打、古巣中日から2本のサヨナラホームランを放った。

2000年、97試合に出場ながら23本塁打と気を吐いたが、球団との折り合いがつかず自由契約になり、4年ぶりの古巣復帰へ。

2001年、 開幕戦に代打で出場、大歓声の中、タイムリーを放ちナゴヤドームを湧かせたが、その後不振のため5月に二軍落ちし、シーズンの殆どを二軍で過ごした。

11月に台湾で開催されたIBAF第34回ベースボールワールドカップに中華台北チームの4番打者として出場、銅メダルを獲得する。

2002年、ファンの大声援を浴びながらも27試合で4本塁打、11打点に終わる。

10/16に引退を表明、14年間の現役生活に別れを告げた。

大豊泰昭の一本足打法のイラスト

大豊泰昭所属球団順位

1989年 中日(星野仙一監督) 3位
1990年 中日(星野仙一監督) 4位
1991年 中日(星野仙一監督) 2位
1992年 中日(高木守道監督)最下位
1993年 中日(高木守道監督) 2位
1994年 中日(高木守道監督) 2位
1995年 中日(高木守道監督) 5位
1996年 中日(星野仙一監督) 2位
1997年 中日(星野仙一監督)最下位
1998年 阪神(吉田義男監督)最下位
1999年 阪神(野村克也監督)最下位
2000年 阪神(野村克也監督)最下位
2001年 中日(星野仙一監督) 5位
2002年 中日(山田久志監督) 3位

中日ドラゴンズ1988年ドラフト指名選手

1位 今中慎二/投手/18歳/大阪桐蔭高
2位 大豊泰昭/内野手/25歳/中日球団職員
3位 山口幸司/外野手/18歳/大宮東高
4位 中嶋治彦/投手/22歳/王子製紙苫小牧
5位 酒井忠晴/内野手/18歳/修徳高
6位 清水雅治/内野手/24歳/三菱自動車川崎

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