2015年1月18日に亡くなられた大豊さんを偲ぶ記事やコメント、ニュース動画をまとめました。
ここでは大豊さんの人となりが分かるものや台湾のものを選んでみました。
時事ドットコムニュースの写真特集
野球関係者の追悼コメントで特に印象深かったのは桑田真澄氏でした。
桑田氏 大豊氏しのぶ「狭いナゴヤ球場で対戦するのは実は恐怖でした」 - スポニチ Sponichi Annex 野球元巨人の桑田真澄氏が20日、自身のFacebookを更新し、18日に死去した大豊泰昭(たいほう・やすあき、本名陳大豊=チン・タイホウ)氏の思い出を語った。「とにかく謙虚な方で、あの大きな身体からは想像できないほど優しい方でした。
いつも『僕は不器用だから練習するしかない』と言っていたのを思い出します」
「大豊さんと狭いナゴヤ球場で対戦するのは、実は恐怖でした。
レフトでもライトでも簡単に本塁打にしてしまう圧倒的なパワーヒッターだったからです」
「大豊さんと何度も対戦することで、マウンドでのチャレンジ精神や、状況に応じた投球術が磨かれたと思います。
よきライバルと出会えたことに心より感謝です」
何度読んでもこのプロ野球選手らしい追悼コメントにグッときます。
ファンにとっては選手にしか分からないグラウンドの上の話が何より嬉しいです。
今は桑田さんのFacebookページが無くなってしまって原文が読めないのがとても残念。
スクリーンショットで残しておけば良かったです。
イチローのコメントもわたしにはとても印象的でした。
「昨シーズン中に2回ほど話し、今オフには必ず会おうと約束していた。
人の心の痛みを察することのできる優しい方で、僕の大好きな先輩の一人だった。
ただただ残念だ。
ご冥福をお祈りすることしか出来ないことが悔しい」
このコメントに対して思うところはこちらに書きました。
日本の野球関係者のコメント
王貞治「台湾からの野球留学でしたが、とにかく野球が好きで、何事もまじめに取り組む選手でした。結果は残せませんでしたが、人間として素晴らしい、誠実な人間だっただけに、早すぎるご逝去は残念でなりません」
星野仙一「入院しているときに一度電話がかかってきて『もうダメです』と弱気なことばかり言うから『バカヤロー』って怒鳴ったことがあったんだ。なのに…ね。51歳か。早いよな、早すぎる。日本人の若者にはないいい意味の頑固さや我慢強さがあるヤツやった…。オレより先に逝きやがって…」
吉田義男「まじめな男でした。私が 3度目のタイガース監督に就任した 1年目のシーズンオフ、中日とのトレードで来てくれたんです。1年目からよく打ってくれました。将来的な野球の日台関係を考えても、惜しい人材でした」
郭源治「打者と投手でチーム内の行動は違うけど、故郷の話とか二人しかできない話をして学び合った。昨年9月に電話で話し、本人が『もう駄目だ』というから、弱気になってはいけないと励ました。台湾のナショナルチームで一緒に指導したかった」
山本昌広「言葉がない。93、94年の僕の全盛期に大豊さんも大活躍され、一緒に悔しい思いもした。体が悪いのは知っていたけど、まさかね…。非常に寂しい。早すぎる。最後に会ったのは去年の初め頃にナゴヤ球場で。随分痩せられたなと思った。いつも会うと励ましてくれた。悲しいです。ご冥福をお祈りするしかないです」
立浪和義「(中日ドラゴンズ寮の昇竜館で)しょっちゅう部屋に行き、わがまま放題をしました。当時の僕は18歳。一軍でプレーしていたので周りは先輩ばかり。でも、大豊さんは気軽に話しかけてくれた。寮で大豊さんとしゃべる時間が唯一安らげるホッとできる時間だった。とにかくよく食べる。プロ野球はこれだけ食べなきゃいけないのかなと思った。体も立派だった」
井上一樹「その無類の食欲と強い体がペーペーの時から印象がある。大豊さんのようにあれぐらいにならんといかんと目標的な人だった」
福留孝介「体調が悪いということは聞いていたが。大豊さんの背中をずっとみてきた。一生懸命練習する方。すごく寂しいし、何ともいえない」
和田豊「体を壊していたことは数年前から知っていましたが、急なことで気持ちの整理がつきません。歳も近いですし、一緒に戦った仲間なので本当に残念です。心からご冥福をお祈りします」
藪恵壹「名古屋に行くたびに、大豊さんのお店に寄って、昔話をしていました。まさか、こんなことになるとは…。大豊さんが阪神に来られた時は、すごく弱い時期。弱いチームのエースと4番、みたいな感じでした。大豊さんは1塁手でしょ。投手に一番近い場所にいるから、ボールが2球続くとすぐに寄ってきて、何してるんだ、自分の投球をしろ、と激励してくれたことが忘れられません。僕が投げる試合もよく打ってくれました。逆転打、決勝打…。思い出せないぐらいによく打ってくれました」
平田勝男「打撃だけでなく守備練習もよくしていたなあ。向上心があってひたむきで…。グラブさばきは、結構うまかったんだよ。人間的にもすばらしかった。残念としかいいようがない」
八木裕「一緒にプレーもさせてもらいましたし、相手としてもパワーが驚異的でした。野球に対して本当にまじめな方だったと思います。大豊さんはこれからも、日本でも台湾でも野球界に恩返しをしようとしていたと思いますので、突然のことで残念でなりません。心よりお悔やみ申し上げます」
久慈照嘉「体調が悪いとはうかがっていましたが、突然で驚いております。遊撃を守っていて『王シフト』じゃないですが、2塁寄りに深く守ったのは、松井秀喜と大豊さんの2人くらいでした」
北別府さんは2020年の1月に自身が成人T細胞白血病であることを公表されました。大豊さんの急性骨髄性白血病と同じ「血液のがん」です。一日も早いご快癒を心からお祈り申し上げます。
自伝「八転び七起き」を連載していた東京スポーツの記事
大豊さん 本紙番記者だけが知る「一本気秘話」 | 東スポWEB台湾出身で中日、阪神両球団の4番打者を務めた大豊泰昭氏(本名・陳大豊)が18日、急性骨髄性白血病のため名古屋市内の病院で死去した。51歳だった。1994年には3...連載のタイトルを「八転び七起き」に決めた時「七転び八起き、じゃないのが俺らしいと思うんだ。いつも転んでいるからね。そこから這い上がろうといつも思ってやってきたから」と話していた大豊氏。また起き上がってくれるはずだったのに…。そういえば55番に引っ掛けて「55歳になったら野菜とかを作って生活するってのはどうかなと思うことがあるんだよ」とも言っていた。51歳で永眠となったが「背番号55」は「大豊泰昭」の代名詞と記者は思っている。
中日とロッテで大豊さん大順さん兄弟とチームメイトだった愛甲猛さんのコラム
代打の切り札・大豊泰昭の早すぎる死|愛甲猛コラム - デイリーニュースオンライン人間的には、人なつっこく可愛い後輩だった。年子の弟、大順将弘とはロッテで2年間一緒にプレーしたが、大順が俺より1つ下の選手にからかわれたとき、「ホントはボク、あなたと同い年なんですよ!」と怒っていたことがある。大豊の学年はオレの1つ下だが、もしかすると、オレより先輩だったのかもしれない。
(中略)
出身地は台湾・南投県。地理的には台湾の中心で、冬は暖かく夏は涼しい、そんな大自然に囲まれて育ったそうだ。台湾の食事や生活について話すとき、大豊の目は輝いていたが、生まれ育った故郷を愛するのは誰でも同じこと。もしかすると「台湾に帰りたい」との気持ちもあったかもしれない。
大豊さんの自慢の故郷、台湾中部の南投県埔里は山々に囲まれた神秘的な盆地でお水と野菜の美味しいところです!
名古屋のタレント、きくち教児さんのブログ
『大豊泰昭』「ウソだろ⁉︎」一緒にゴルフに行くとキャディーバッグにバットを入れていた。グリップエンドには「55」の数字。最初はウケ狙いかと思った。「ここは沖縄か⁉︎」ティ…「ウソだろ⁉︎」
一緒にゴルフに行くとキャディーバッグにバットを入れていた。
グリップエンドには「55」の数字。
最初はウケ狙いかと思った。
(中略)
身長185センチ、体重は100キロ超!
デカいけどかわいい私の弟。
送る言葉は、「ゴルフの練習しながら待っとれ!」だな。
名古屋CBCラジオの記事
ずっと忘れない。大豊泰昭選手の愛される人柄を。読んで聴く、新しい習慣。番組内容を編集した記事からラジオ番組を聴いていただける”RadiChubu”。名古屋を拠点とするCBCラジオの番組と連動した、中部地方な...そんな大豊さんのキャラクターを表す言葉として「努力」「誠実」「愚直」「気遣い」「不器用」が当てはまると、久野は言います。
43年間のアナウンサー生活の中で見てきた中でも、大豊さんが最もマジメで長時間練習に打ち込んだ選手だと、しみじみ語ります。
「不器用」というのは悪い意味ではなく、要領よく世渡りをするような人ではない、ということです。
まさしく“気は優しくて力持ち”と言える人物なのでした。大豊さんの人柄が偲ばれるエピソードを2つ、久野が紹介しました。
まずは「もてなすつもりがもてなされ」の巻です。
CBCテレビの老舗ドラゴンズ応援番組『サンデードラゴンズ(サンドラ)』の司会を久野がやっていた頃の話。サンドラ放送終了後、久野が新築祝いで、スタッフや後輩のアナウンサーなどを自宅に招待しました。
その時大豊さんも来てくれたのですが、なんと、せっせと料理を運んだり、皿を片づけたりしてくれたのだそう。「いやいや大豊さん、あなたはゲストなんですからどうぞ座っててください」と言っても、「いやいやいや」と言って甲斐甲斐しく奉仕してくれたんだとか。
名古屋CBC「サンデードラゴンズ」の大豊さんは本当に面白かったです。たまに友人がビデオを送ってくれてありがたく見てました。大豊さんの楽しいお人柄とサービス精神は東海ローカルの中日ファンの間ではおなじみだったようですが、野球の試合だけ見てると頑固で真面目で寡黙なところしか分からないので、けっこう衝撃的でした。普段の大豊さんの日本語はちょっと名古屋なまりなんですよね。
東海ラジオ大澤広樹アナウンサーの記事
『野球人・大豊泰昭』 | 日々 | 直球勝負!大澤広樹 | TOKAI RADIO FM92.9MHz/AM1332kHz東海ラジオの大澤広樹アナウンサーのブログです。放送とともにブログでもお楽しみください!(2001年の)沖縄・春季キャンプ。北谷球場で、入社3年目の私が大豊さんにインタビューです。私もまだまだ若手だったので、子どもの頃から見ていた中日のホームラン王と対面するというのはやはり緊張しました。名刺を渡し、インタビューを始めようとした時、大豊さんが言いました。「喉が渇いた。いま、練習中で小銭を持っていない。大澤クン、僕にジュースをおごってくれないか」。大豊さんとふたりで大笑い。わかりました、ごちそうしますと、ふたりで炭酸飲料を飲みながらの収録。私の緊張もほぐれ、終始和やかに進んだことをいまでもハッキリ覚えています。
ここからは台湾のニュース動画と記事です。
台湾の野球関係者のコメント
陳偉殷(チェン・ウェイン)「非常感謝大豐前輩過去的照顧,很遺憾聽到這個消息。」
中華棒協秘書長 林宗成【巨砲殞落 台日哀悼】台灣少數 日職強打者「對協會來說,大豐最重要的貢獻就是2001年世界盃,因為他最資深,因此擔任中華隊隊長,成功扮演母雞帶小雞的角色。他是打擊見長的球員,也是台灣少數(或者說是唯一)以打擊站穩日職的球員,相當特殊,協會將透過中日球團了解,接下來大豐的告別式時間,將派人去致意。」
許銘傑 覺得挫折 會請他開導「聽到這個消息,覺得很意外也很難過。大豐前輩我一直都有跟他固定聯絡,不只是因為世界盃的關係,也因為他是日本職棒的前輩。有時想到會跟他問候一下,如果我自己心情不是很好,覺得有挫折時,也會跟他聊聊,他也會以過去在日本職棒的經驗鼓勵我。我知道他後來身體不是很好,但前年跟他聯絡時,聽起來聲音還滿有精神的,最後完全沒想到會變成這樣。」
洪一中 激勵氣勢 扮演領導者「啊?怎麼會這樣!大豐還小我3歲,怎麼這麼早就過世了!那時候01年世界盃,他為了要回來打國家隊,身段放得很低,想辦法跟學弟們打成一片。賽前聽人說,他的個性很一板一眼,但那時候學弟們跟他開玩笑,他也不會生氣,跟大家相處得很好,可能有克制他在日本的習慣吧。世界盃大豐扮演一個領導者的角色,用他的經驗來鼓勵隊友,是那時能打出氣勢的關鍵。」
張泰山 沒有架子 靠他拿季軍「跟大豐賢拜是在2001年世棒賽認識的,我跟林明憲還公推他是禿頭協會會長,當時他是大明星,可是到了國家隊卻完全沒有架子,他把自己當做是年輕人,跟我們一起打球、一起生活,就是這樣球隊才能融為一體,沒有他,台灣那屆比賽就不會拿季軍。第一次聽到大豐生病是中島(輝士)教練說的,去年看到他給台灣球迷幾句話的影片,嚇了一大跳,怎麼這麼瘦!真得好難過,沒有機會再見到他,他就過世了。」
大豊さんが台湾代表選手で出場した2001年野球W杯の林華韋監督のコメント
林華韋:大豐扛四番 驚天滿貫砲 - 自由體育台灣球迷對陳大豐最深刻的印象,首推2001年世界盃棒球賽對南非轟出逆轉戰局的滿貫彈,後來幫助台灣隊拿到第3名。當年的總教練林華韋得知陳大豐病逝後表示,陳大豐帶給...林華韋表示,陳大豐在那年世界盃展現領袖特質,稱職扮演隊上的老大哥。昨天得知他過世的消息,除了感到很突然,心情也很複雜,「或許年過40歲的球迷,對他在日職的成就才比較熟悉,他對棒球一直很執著,始終抱持努力不懈的態度,這些都很值得年輕球員學習。」
2001年野球W杯で禿頭協会副会長をしていた張泰山のコメント。会長はもちろん大豊さんです(笑)
創禿頭協會 泰山憶賢拜笑顏 - 自由體育「禿頭協會會長」陳大豐走了,「副會長」張泰山昨天聞訊相當難過,他最難忘這位巨砲賢拜的親和力及風趣,希望用那些昔日趣事沖淡感傷。「他當年是禿頭協會會長,我是副會長...「他當年是禿頭協會會長,我是副會長啊!」現年38歲的張泰山在14年前披上國家隊戰袍,在2001年第34屆世界盃和陳大豐當隊友。當年張泰山是24歲的小夥子,而陳大豐則是37歲的大賢拜。
只是這位大賢拜完全沒有架子,讓張泰山印象深刻,「他不會因為在日本是巨星,就擺出賢拜的架子,和我們年輕人打成一片,所以大家都很喜歡他。」
郭李建夫さんのコメント。阪神で一年チームメイトでした。
郭李建夫:同隊1年 照顧後輩 - 自由體育郭李建夫(世大運台灣隊總教練,和陳大豐在阪神虎當1年隊友)大豐賢拜在1998年被中日龍交易過來(阪神虎),那年是我在日職的最後1年;雖然只跟他同隊1年,還是從他...大豐賢拜在1998年被中日龍交易過來(阪神虎),那年是我在日職的最後1年;雖然只跟他同隊1年,還是從他身上學到很多。其實從我去日本的第1年(1993年),還在中日的他就很照顧我們這些後輩。
我雖然在1999年回來台灣,還是有跟他保持聯絡,最近一次是在2年前,他還在當中日的球探,想要了解一些球員的狀況。他在電話中提到身體很不好,我還要他加油、好好養病。知道他過世了,我很傷心,也很難過。
埔里の幼なじみを取材した記事です。大豊さんは小学生の頃から「棒球明星」だったそうです。
陳大豐病逝 埔里親友不捨 - 地方 - 自由時報電子報旅日棒球好手陳大豐, 十八日在日本病逝,消息傳回故鄉埔里鎮,親友都很不捨,其鄰居及同學表示,陳大豐念舊又孝順,九二一地震發生後在日本募款並回台賑災,是讓人永遠懷...陳大豐的國小同學魯正龍說,陳在小五時被棒球教練陳石虎發掘,從愛蘭國小轉到育英國小,並在陳石虎家住了快兩年,他一直很感念身兼導師、教練的陳石虎對他的幫助;另一位同班同學徐春錚也說,在台灣發生九二一大地震後,陳大豐就在日本為台灣募款,隔年十月返鄉捐款給埔里幾個災區和母校育英國小。
「七年前他回埔里開同學會,送給我們每人一本個人專輯,當時曾約定要再找時間聚首,想不到已天人永隔!」徐春錚、魯正龍均表示,陳大豐在國小就是棒球明星,而當時他代表南投隊參加中部少棒選拔賽時,曾擊出三分全壘打,班上在畢業紀念冊還特別用了他揮棒的照片,以「陳大豐.建大功」標題來紀錄該這項功績。
台中の東峰中学で大豊さんとクリーンナップを打っていたチームメイトを取材した記事です。世界大会で一緒にアメリカ遠征したときの写真を見せてくれています。
棒球/康明杉手機留36年前奪冠合照 惋惜陳大豐早逝 | ETtoday運動雲 | ETtoday新聞雲旅日名將陳大豐於18日逝世,康明杉是陳大豐的國中同學,1979年兩人曾一起征戰美國,勇奪世界青少棒冠軍東峰青少棒,康明杉為他的早逝感到惋惜。陳大豐體格壯碩,他國中時期就是「大胃王」,康明杉打趣地說,「我們吃飯會開3桌的合菜,還記得大豐很會吃,又吃得很快,像泡麵碗的大碗公,他一個人可以吃5碗,所以我最不喜歡跟他同一桌。」
國中畢業後康明杉與陳大豐分道揚鑣,康明杉留在台中就讀明德高商,陳大豐則北上就讀名校華興中學,分隔兩地因此較少聯絡,直到康明杉入合庫時,陳大豐剛好也在台北等待進軍日本,兩人常相約出來碰面,不過到日本後就沒再連絡了。
陳大豐在日職的成就無庸置疑,康明杉在台灣也會關心他的消息,聽聞昔日隊友過世的消息,康明杉惋惜地說,「還記得他從國中就是很粗勇的人,這麼早離開真的很可惜。」
康明杉從手機中翻出當年一起出征美國的照片,回憶起陳大豐無論青少棒及成棒都曾當選國手,康明杉說,「雖然陳大豐的成就是在日本職棒時期,不過他畢竟也是台灣三級棒球培養出來的球員,2001年也曾返台參加世界盃,與有榮焉。」
大豊さんと親交のあった台湾のテニス選手兄妹が基隆に大豊さん所有の野球グッズを収蔵する施設を大豊さんと計画していたものの実現できなくなったことを明かした記事。
日職/籌備棒球文物館 陳大豐未完成的夢 | ETtoday運動雲 | ETtoday新聞雲前旅日名將陳大豐原本計劃將他過去打棒球的球衣等相關物品作為傳承,於基隆設立文物紀念館,供球迷展示,但因還來不及交代相關細節與授權作業就過世,目前已無法實現。前旅日名將陳大豐原本計劃將他過去打棒球的球衣等相關物品,於基隆設立文物紀念館作為傳承,供球迷展示,但因還來不及交代相關細節與授權作業就過世,目前已無法實現。
設立文物館的計劃,由前網球選手陳宜計劃,先前參選基隆市議員,曾計劃不論有無當選都要推動促成此事。
陳宜表示,陳大豐在日本保存了非常多具有歷史意義的相關物品,「大豐哥當初的確有這個計劃,但現在不可能了,因為他還來不及交代相關細節就過世了。」
基隆で議員をやっている妹の陳宜さんは大豊さんの紹介で陳偉殷とも親交があるそうです。
大豊さんの弟、陳大順さんの記事です。
陳大順談逝世兄長陳大豐:堅韌的精神值得學習 | ETtoday運動雲 | ETtoday新聞雲旅日名將陳大豐在今年1月因急性白血病逝世,他的弟弟陳大順說,哥哥堅韌的精神與執著的態度值得學習,「他(陳大豐)學習王貞治的稻草人打法時,三更半夜都在揮棒,因此才...提及哥哥陳大豐,陳大順說,哥哥罹患白血病後,還活了6年,若沒有妹妹的骨髓移植給他,恐怕活不到6年,陳大順也提到,哥哥值得學習之處,在於他堅韌的精神與執著的態度,「他(陳大豐)學習王貞治的稻草人打法時,三更半夜都在揮棒,因此才拿到全壘打王和打點王。」
このFacebook記事のコメントに書いてあるのですが、インタビューを受けた大順さんは亡くなった兄の大豊さんの話になると涙にむせび絶句してたそうです…。
去年協辦龍象OB傳奇公益賽時,与陳大顺談及他哥哥陳大豐時,剎那間大顺突然哽咽地說不出話,我知道情同手足的這對兄弟,即使壯如牛般的體魄,也有柔情似水的一刻。
大豊さんの本と写真集を手がけたことのある台湾のスポーツライター曾文誠さんの回想記事。大豊さんを日本に呼んだ松井秀郎氏について。
【運動專欄/曾文誠】另一種野球人生松井秀郎何許人也,陳大豐的義父。過去在我為了陳大豐書籍而展開密集編輯寫作時,松井秀郎這4個字就不斷地出現在我那幾天的工作中,我是真的很想見見這個人...2020的第1個月,我走在阿塱壹古道上,旅程即將結束,突然想起今天18號似乎是旅日球星陳大豐過逝的日子,怎麼突然想起這個?不知為什麼,總之就是憶起了,為了確定,上網查了一下,果然沒錯,想起陳大豐,還有那位影響他極巨的松井秀郎。
松井秀郎何許人也,陳大豐的義父。過去在我為了陳大豐書籍而展開密集編輯寫作時,松井秀郎這4個字就不斷地出現在我那幾天的工作中,我是真的很想見見這個人,他有我過去及往後歲月裡不可能有的決心及毅力,我想問他如何做到在最短的時間內下決心帶陳大豐到日本,然後用18年的毅力去陪伴陳大豐成長,我想知道這個問題的答案。
亡くなった大豊さんに寄せられたコメントや記事をこうしてまとめてみると、野球を心から愛して沢山の人との「出会いに感謝」していた大豊さんの生き方に思いを馳せることができました。
わたしも大豊さんとの出会いに感謝して、これからも野球観戦を愛していきたいと思います。