講座「嘉農とKANO―甲子園を目指した台湾球児たち」(講師:謝仕淵)メモ- KANO MEMO

台湾野球
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大阪の国立民族学博物館(みんぱく)で2014年8月に行われた連続講座「台湾文化を知る」の「嘉農とKANO―甲子園を目指した台湾球児たち」講師:謝仕淵(国立台湾歴史博物館研究組組長)を受講してきたときのメモです。

連続講座「台湾文化を知る」 | 国立民族学博物館
日時:2014年8月10日(日)、8月31日(日)、9月7日(日)、9月13日(土)、9月23日(火・祝) 各日とも14:00~16:00(開場13:30) 場...
  • 「KANO」が公開されるまで多くの台湾人はこの出来事を知らなかった。それまでは1968年に少年野球の紅葉隊が日本の関西連合チームを破ったことが強く記憶されていた。中華民国の国威発揚のためリトルリーグで勝つことに関心が向けられていて嘉農のことは忘れられていた。

果子電影「《KANO》 クランクインMOVIE」

  • なぜ嘉農が忘れられていたのか。戦後の政治状況や社会的背景により甲子園の栄光とは向き合えなかった。わたしは嘉農の準優勝旗と盾を探したが、それは学校が捨てていたことが分かった。必要なくなったと思われていたのだ。

果子電影「《KANO》 正式預告」

  • 戦後忘れられていた「KANO」の出来事(1931年に甲子園初出場で準優勝)が映画で21世紀に蘇ったことは台湾現代史の特徴を象徴していると言えよう。作品への賞賛と批判は異なる歴史観が共存する台湾社会の多様性に関連している。

民視讚夯 Formosa TV Thumbs Up「2014.04.20【台灣演義】KANO

  • 1930年代の台湾人、とくに嘉義の人々にとって嘉農は特別な存在だった。嘉農は当時、農業が主力産業だった台湾のエリート校。文武両道で勉学も練習も厳しかった。レギュラー選手のみに与えられるKANOの文字入りユニホームを着ることは非常に栄誉なことであった。

果子電影「《KANO》 幕後直擊 尋找台灣的美好年代篇_9.25安可上映」

  • 台湾のベーブルースと言われた嘉農出身の洪太山選手は戦後初期の有名プロ選手で味の素が景品にブロマイドを作ったほどの大スター。洪太山は嘉農の凱旋パレードを見て野球選手になることを心に誓った。彼は現在90歳でとてもお元気(※2014年8月当時)。毎日バイクで麻雀に出かけている。
  • 台湾から甲子園には1923年から出場した。台北の日本人選手のチームが出場していた。嘉農は甲子園予選の台湾全島大会に1931年に初出場、三民混合チームであることが注目されたが代表校になることは誰も予想していなかった。

果子電影「《KANO》六分鐘故事預告」

  • 嘉農の甲子園出場決定も台湾の人々は期待していなかった。これまで台湾代表は1、2回戦で敗北していたからだ。嘉農の大活躍で戦況が分かるよう街頭ラジオ設備が整えられた。三民族の協力は台湾全土を奮起させた。前年の霧社事件以降の「理蕃」の成果を代表するものとみなされた。

果子電影「《KANO》 クランクアップMovie」

  • 嘉農野球部の卒業生の一部は故郷の台東に戻り学校の教師や公務員になり、新たに野球選手を育成した。台東の原住民社会における野球の発展には嘉農が関わっている。台東出身の郭源治、陽岱鋼の指導者は嘉農の出身だ。
  • 嘉農の甲子園での活躍はとくに原住民選手がステレオタイプに取り上げられ、厳しい訓練で身に付けた守備の素晴らしさは日本チームにひけをとらないほど洗練されたものだったが、言及されることはなかった。現在も”天性のもの”と選手を取り上げがちではないだろうか。

果子電影「《KANO》9.25安可上映預告」


  • 台湾の野球には戦後失われてきた日本時代の礼儀や文化が色濃く残っているのではないか。日本から独立した東アジアの国々の民族学の重要なテーマとして野球を研究していきたい。みなさんも民間交流していってください。

質疑応答

台湾人の二人の参加者から手が上がった。

  • 台湾の社会でなぜ嘉農のことが忘れられていたのか、それは国民党政府の政策だったのか、なぜ選手は公に語ってこなかったのか。
  • 今の政府は野球に投資していないのではないか、先生はどう思うか。

謝仕淵先生の答え

「嘉農の選手が野球には関わっていても深いことまで語ってこなかったのは、特別な原因というより社会の背景や時代的なものだろう。」

「最近は政府の野球への投資は少ない、本土化と野球ブーム、野球化と日本化、どう考えていくのかが重要だと思う。」

わたしも手を上げて質問。「台湾に野球殿堂ができたようですが、どのようなものですか?」

謝仕淵先生の答え

「今年殿堂ができて4人が選出された、台湾では台湾野球の歴史に詳しい人が多いわけではないので、選出方法や運営に課題があると思う。」

台灣棒球名人堂協會のFacebookページ

講座修了後、謝仕淵先生にサインをいただきました。

「そういえば、そもそもわたしなんで嘉義農林のこと知ってたんだっけ?」とよくよく思い出してみると、おそらく東京ドームの野球殿堂で呉昌征さん(「人間機関車」と呼ばれた俊足・強肩の名外野手、嘉義農林出身)を知ったからなのではないかと思います。

野球殿堂博物館

2014年に映画「KANO」が台湾で社会現象になるほどの大ヒットになり、それで初めて嘉義農林を知った台湾人が多かったという話や、ステレオタイプに基づいた選手像についてはわたしもいろいろ考えさせられました。

日本で謝仕淵先生のお話を日本語通訳付きで聞けたこの貴重な機会に本当に感謝です。ありがとうございました!

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