大豊まめちしき- TAIHOH Column

大豊加油!!復刻版
大豊加油!!復刻版
大豊泰昭と山﨑武司 2002年、広島市民球場で
2002年 広島市民球場 大豊さんと山﨑武司選手

大豊泰昭(たいほう・やすあき):陳大豐(Chen Tai-Feng)プロフィール

185.0cm、110.0kg。左投げ左打ち。
台湾南投県埔里鎮出身。1963年(昭和38年/民國52年)11月15日生まれ。
3男1女、4人兄妹の長男。A型。さそり座。
2009年3月、急性骨髄性白血病のため闘病生活に入り、2015年1月18日の午後10時41分、名古屋市内の病院で死去した。51歳。

大豊さんを偲ぶ記事、コメントまとめ
2015年1月18日に亡くなられた大豊さんを偲ぶ記事やコメント、ニュース動画をまとめました。ここでは大豊さんの人となりが分かるものや台湾のものを選んでみました。...

愛蘭小(埔里)-(小学五年のときスカウトされ転校)育英小(埔里)-大成中(埔里)-(中学二年のときスカウトされ転校)東峰中(台中)-華興高(台北)-名古屋商科大-中日球団職員を経て、1988年ドラフト2位指名で中日に入団。1998年、2対2(大豊泰昭、矢野輝弘←→関川浩一、久慈照嘉)のトレードで阪神へ移籍。2000年、阪神を自由契約となり、中日と契約。2002年、現役引退。

主な記録

大学通算本塁打24本(愛知大学リーグ記録)。日米大学選手権出場:1985年、1987年。ジュニアオールスター出場:1989年、1990年。オールスター出場:1991年、1994年、1996年。タイトル:1994年=本塁打王(38本)、打点王(107打点)、ベストナイン(一塁手)。月間MVP:1994年=6月、9月、1996年=5月。

*初出場:1989年4/9大洋戦(5番、左翼手、3打数1安打2三振1四球、ナゴヤ球場)
*初打席:1989年4/9大洋戦(ナゴヤ球場、斎藤明夫投手・四球)
*初安打:1989年4/9大洋戦(ナゴヤ球場、斎藤明夫投手・中安打)
*初本塁打:1989年4/22広島戦(広島市民球場、北別府学投手)
*初打点:1989年4/22広島戦(広島市民球場、北別府学投手)
*初盗塁:1989年4/20巨人戦(9回、二盗、ナゴヤ球場)
*通算50本塁打:1991年7/12巨人戦(東京ドーム、斎藤雅樹投手)
*通算100本塁打:1994年4/29広島戦(岐阜長良川球場、川口和久投手、177人目)
*通算150本塁打:1995年8/22阪神戦(西宮球場、藪恵壹投手、101人目)
*通算200本塁打:1997年5/11広島戦(ナゴヤドーム、佐々岡真司投手、67人目)
*通算250本塁打:2000年4/8広島戦(広島市民球場、紀藤真琴投手、39人目)
*通算1000本安打:2000年4/8広島戦(広島市民球場、紀藤真琴投手・右前打、199人目)
*通算1000試合出場:1998年4/22横浜戦(阪神甲子園球場、342人目)
*通算1000三振:2000年9/17広島戦(広島市民球場、佐々岡真司投手)
*通算三振数:1057
*通算本塁打数:277
*通算本塁打率:14.88
*通算代打本塁打数:11
*シーズン代打本塁打:6(1999年)
*ゲーム3本塁打(連続):1994年7/31広島戦(広島市民球場)
*同一カード最多本塁打:18=対広島(1994年)【日本記録】
*4試合連続本塁打:1994年4/29広島戦(岐阜長良川球場)~5/3ヤクルト戦(ナゴヤ球場)
*5試合連続本塁打:1996年4/11阪神戦(ナゴヤ球場)~4/16巨人戦(東京ドーム)
*シーズン最多三振:117(1993年)
*1イニング代打で2三振:1993年9/28巨人戦(ナゴヤ球場)
*ゲーム最多三振:5(1997年6/3横浜戦:ナゴヤドーム)
*10試合連続長打:1991年6/16阪神戦(甲子園球場)~7/3広島戦(広島市民球場)
*26試合連続安打:1999年8/24広島戦(倉敷マスカット球場)~10/1広島戦(広島市民球場)
*161試合連続全イニング出場:94年4/9横浜戦(ナゴヤ球場)~1995年5/24横浜戦(横浜スタジアム)
*[守備記録]一塁手・シーズン最多併殺:162(1994年)

背番号55

1988年、中日入りした大豊は、星野監督に「55番をください」と申し出た。55という数字は尊敬する王貞治が1964年にマークした1シーズン最多本塁打数である。「王さんの55本を目標に」という意思表示に星野監督もその意気を買い、背番号は55と決まった。

好きな言葉

「得意淡然、失意泰然」「流汗悟道、血汗悟道」「明日のために希望をもて」「自強不息」「大志懷心」…自強不息=常に自分を磨く、大志懷心=『心の中に自分の目指すものを忘れない』の意。

好ききらい

「好きなのは、ラーメン。中学二年の時、最高12杯食べたよ。」
カツ丼や牛丼、母親の作るビーフン料理も大好き。ビーフン(米粉)は台湾では名水で知られる故郷・埔里の名物。
「何でも食べるけど、ハンバーグやトマトケチャップはちょっと苦手。」
「食べ物は好ききらいのないように何でもどんどん食べた方が、体のためになるよ。」

好きな季節

「やっぱり夏。暑いほうがいい。疲れやすいけど体調もいいよ。プロ野球選手は夏に強くないとダメ。夏を頑張れば、もうすぐ終わりだから。(笑)」

好きな読み物

三国志。好きな英雄は義侠心に厚い人物として名高い関羽。1996年のオフには名古屋CBC「サンデードラゴンズ」で公約を果たし、念願の中国行き。万里の長城や、関羽ゆかりの地、荊州の関帝廟などを訪れている。

※関帝廟=関羽が祀られた廟。武神・財神として崇められ、日本の各地中華街にも建てられている。

好きな色

「ブルーが好き。」

自分の性格

「配慮が深く、意地っ張り。ものによっては頑固。ものによってはいいかげん。(笑)人との約束は絶対破らないけど、家族にはいいかげん。嫁さんには“耐えることが必要”と。」テレ屋。情が厚く、人前では泣かないが涙もろい。TVドラマ「大地の子」を見て泣いた。

※「大地の子」=1995年にNHKで放送された山崎豊子原作の大作ドラマ。NHKオンデマンド「大地の子」

ドラマスペシャル 大地の子
平成7年(1995)に放送した、山崎豊子原作、日中共同制作のスペシャルドラマ。太平洋戦争の敗戦によって、満州で残留孤児となった主人公・陸一心(中国名)が、中国人養父母への愛情と日本の実父との愛憎に揺れながらも、文化大革命の荒波を越え、日中共同の製鉄プラント事業を完成させるまでの物語です。出演、仲代達矢、上川隆也(主人公...

子供の頃の遊び

「小さい時は非常に田舎でね、遊び道具が何もなかったの。そのかわり、牛とか、リヤカー、アヒル、鳥、犬、川、いっぱいありました。チョウチョウ捕りに行ったり、裸足で川に行って魚獲って焼いたり、牛引っぱってって餌食べさせて、川で体を洗ってあげたり。そのかわり、人のサツマイモ盗んで、焼いて食べたりしてたけどね(笑)。そういうのが 小さい時の一番いい思い出だし、大自然が大豊選手を育ててくれたと思ってる。」

体の鍛え方

「ほとんどウエートトレーニングはやらないんだよね。ジョギングをしたり、柔軟体操をたくさんやる。小さい頃、牛やリヤカーを引っぱってたでしょ。サトウキビを運んだりするからね。鍬を持ったりするから、すごく筋肉を使ったの。大自然の中で、自分の家の畑仕事のおかげで、こういうふうに大きく育ててもらったの。」

大豊さんの故郷、台湾中部南投県の山あいの風景

大豊さんの故郷、台湾中部南投県の山あいの風景

集中力

「集中力は一番難しい。どうしても散漫になりやすいね。だから「このものに対して一生懸命にやる」っていう時間帯を決める。大豊選手には、一つ癖があるんだけど、例えば先にごはんが用意してあるとするでしょ。でも、他のことを全部やってからじゃないとごはん食べない。それも集中力。普通は、お腹すいてたらすぐに食べちゃうでしょ?でも、あとは明日でいいわとなると、どんどんたまっちゃう。だから、今日の宿題は今日やる。友達が「遊びに行くぞ」って言っても、30分待ってもらって先に宿題をやってしまうとかね。遊びは面白かったらついつい時間がオーバーしちゃうから、帰って来たら何をやるっていうのを頭の中に描くといいね。まずお風呂に入って、ごはんを食べたら勉強するのか。そして今日は9時半に寝るぞってね。それも、一つの訓練。訓練ってことは、集中力がどんどん育ってくると思いますよ。」

コメント

「初ヒットといっても気持ちは普段とかわらない。」 個人記録を調べていて見つけた初安打のコメントがこれ。この「普段とかわらない」は、数多く口にしているコメントである。また、克明な日付や数字が出てくるのも特徴。記憶魔であることは一流プレーヤーの条件である。

尊敬する野球人

王貞治への強い尊敬の念は有名だが、1994年オールスターゲームの試合前、大豊は尊敬する二人の監督、というよりも往年の名選手にサインをもらっている。ヤクルト・野村監督と巨人・長嶋監督である。そのとき書かれた言葉は野村監督が『随処作主』(随所に主役であれという意)、長嶋監督が『快打洗心』であった。

落合博満と大豊

「うーん…、落合さんに2度言ったことがあるんだ。『落合さんは中日にいてほしいが、それだと大豊はメシが食えない』ってね。そうすると、ニヤッと笑っていたけど。」報知新聞のインタビューより(1995年2月)あの94年『中日×巨人10・8ゲーム』を経て、口にした言葉である。常に意識してきたであろう“天才打者”落合博満との関係が興味深い。

1997年大豊事件簿

米国人審判マイク・ディミューロとの判定を巡っての退場事件

6/5、横浜戦・岐阜長良川球場、ディミューロ審判のストライク判定に大豊が抗議を一言漏らし、「暴言により退場」の処分となる。その際、ベンチから星野仙一監督、コーチらが飛び出し大騒動となった。ディミューロ審判は「身の危険を感じた」と6/12に帰国した。

*この事件について、あたかも大豊がディミューロ審判に暴力をふるったかのように記述するものがあるが、確かに大豊は退場宣告されたことに驚き、激しく表情を変えて詰め寄ったが、ディミューロ審判と接触したのもベンチから出てきた人間に取り囲まれたからである。

「ディミューロには、日本に残って欲しかった。中途半端な形で帰って欲しくなかった。彼とは、最後は握手して、友達になれそうな気がしていたんだ。本気でギャアギャア言い合った仲は、親友になれるもんだよね。」

親しい記者に漏らした言葉の中の『親友』は『信頼』という意味合いではないだろうか。問題が何も解決しないまま現場から去ってしまったディミューロ審判を、大豊は誰よりも残念がった。大豊こそが文化風習の違う異国の地で必死に野球に打ち込み、成長してきた人間なのである。

名審判・島秀之助氏はこう言い遺している。

~審判がいつも目標にすることは?~

「もっとも大切なことが、3つあります。(1)判定が正確である。(2)判定は明快で元気よいジェスチャーで示し、試合を盛り上げる。(3)ルールに精通し、豊かな常識を持つ。このうちどれが欠けても、アンパイアとはいえない。これに尽きるんです。しかしこれがなかなか難しい。」サライ・インタビューより(1993年7/1号・小学館)

「審判員の権威」や「ベースボールと野球の違い」を論ずる前に、なぜそれを論じなければいけないのかを考える必要があるだろう。戦後まもなくのある日、「民主主義とは何ぞや?」と問う別所毅彦に向かって「デモクラシー、イズ、ベースボール」とグラウンドを指差し答えた米兵がいた。半世紀前のその瞬間、ベースボール=野球は人種やイデオロギーをも軽やかに超えてみせたのである。

ファンのヤジに対してのバット投げ事件(7/3、横浜戦終了後・ナゴヤドーム)

「やってはいけないことをしたと反省している。3日間の出場停止では軽いくらいかもしれない。これからはファンにやじられるのではなく、声援されるように頑張る。」

伊藤中日球団代表のコメント

「民族の尊厳にかかわるヤジであったことは理解してほしい。が、いかなる理由があろうとも、野球選手がファンにバットを投げる行為は許されない。」

大豊が激高した『民族の尊厳にかかわるヤジ』が「台湾に帰れ」程度のものではないことは想像に難くない。一人の人間としての尊厳を傷つけることもまた決して許されてはならないのである。

台湾と大豊

大豊は台湾(中華民國)籍であったが誤解も多く、プロ入り後に台湾代表チームに参加したのは2001年の野球W杯のみであった。個人のアイデンティティーとプライバシーに関わる話題は、本人の意思を十分に尊重し、慎重に扱わなくてはならないだろう。

1999年の台湾集集大地震の際に行ったチャリティー活動、2001年の野球W杯でチームリーダーとして活躍した姿、大豊の故郷を愛する気持ちは多くの人を感動させた。

921台湾集集大地震と大豊

1999年9月21日午前1時45分(現地時間)、台湾中部でマグニチュード7.6の大地震が発生した。死者2,399人 、負傷者8,700人あまり、建物全半壊5万棟以上の大惨事となった。

その日の早朝、大豊は遠征先の東京のホテルで名古屋の妻からの電話で目を覚ました。台湾の弟と妹3人の無事は確認できたものの、両親の安否だけが分からないという。両親が暮らす大豊の実家のある南投県埔里は震源地の集集からわずか十数キロ。弟・大順が両親を探しに車を走らせたが、道路は実家の15キロ手前で壊滅寸断されて通行止め。電話回線も遮断され、連絡が取れない状態が続いた。

大豊は最愛の両親の無事を祈り、不安に胸を押し潰されそうになりながらも、21日の巨人戦(東京ドーム)に出場、上原投手から18試合連続安打となる16号ホームランを放った。

「実家は山奥にあるからね。道路もメチャクチャで、様子を見に行くこともできないらしい。でも大丈夫。僕は絶対、大丈夫と信じているから。」

その夜、宿舎で大豊は故郷の方角に向かい正座でひざまずき、天に祈り続けた。「神様、私は大豊泰昭と申します。両親はきょう起こった台湾の大地震に巻き込まれ、いまだ安否が分かりません。両親は私の生き甲斐。どうかどうか無事に、生きて返して下さい」と。落ち着かず、うまくないお酒を手に、台湾の様子を伝えるテレビをつけっ放しで午前5時まで眠れなかった。

ようやく両親の無事が確認できたのは22日の午後12時23分、大順の妻からの涙声の電話だった。大順がやっとの思いで実家にたどり着き、両親を見つけ、お互い抱き合って泣いたのだという。実家は前年の1998年春に兄妹からのプレゼントで耐震性のあるものに改築していたため、壁にヒビが入った程度の被害で済んだ。

「お父さん、お母さんがいて初めて今の自分がいる。こんな形でお別れになったら、生きる目標をなくしてしまう。本当に神様に感謝です。ただ大勢の方が亡くなっているので、自分ばかりが喜んではいられません。何かの形で祖国の復興の役に立ちたい。」

奇しくも古巣中日が優勝を決めた9月29日、台湾プロ野球の中華職業棒球聯盟(CPBL)より大豊への震災復興チャリティーゲーム出場要請が阪神タイガースに対して行われた。『大豊選手は台湾の英雄であり、ぜひ参加してほしい』との依頼であった。このゲームは10月2、3日に台北、台南球場で行われる予定で、阪神は公式戦と重ならないこともあり出場を許可する。日本球団の支配下選手がシーズン中に海外リーグの試合に参加するのは異例であった。

大豊は台湾へ出発する前日の10月1日、球団新となる26試合連続安打を放った。ちなみにこの年はこれも球団新であるシーズン代打6本塁打をマークしている。

台湾の震災救援義賽(チャリティーゲーム)「921台灣加油」はCPBLに所属する6チームが台北の第一戦では三商、兄弟、味全、台南の第二戦では和信、統一、興農とふたつに別れ、明星紅隊(プロオールスターチーム)として中華成棒隊(五輪代表チーム)と戦うもの。大豊は2戦ともに4番DHで出場した。

第一戦はこの日広島からの強行移動で試合前の打撃練習は出来なかったが、初回の第1打席こそ郭源治の前に投ゴロに倒れたものの、2打席目の4回1死一塁、謝富貴から先制タイムリーとなる弾丸ヒットの二塁打を放った。その大豊の一打に台北球場の観客が総立ちになり湧きに湧く。二塁ベース上、思わず両腕を突き上げた大豊をフラッシュの嵐が包んだ。その後の打席は弟の大順と交代、5回終了後に、母国語で義援金を呼びかけるあいさつに立った大豊を、また割れんばかりの拍手が包んだ。

「震災で辛い思いをしてる方、亡くなった方はたくさんいます。力のある人は力を出し、お金のある人はお金を出して下さい。」

この日、雨の中集まった観衆は満員の7000人。華興高の先輩であり、中日ドラゴンズでともにプレーをしていた郭源治は「八百長が発覚してから、普段の試合は400人から1000人がいいところ。でもきょうのメーンゲスト、大豊にみんな期待してたんです。チャリティーは大成功ですよ。」と言う。

※震災当時の台湾プロ野球は97年に発覚した野球賭博問題やリーグ分裂の混乱が尾を引き、観客減が深刻化していた。

試合後、台北市内の宿舎ホテルに戻るとそこには埔里から車で5時間かけて駆けつけた両親の姿があった。念願の再会に涙、涙の熱い抱擁。台南に住む末弟は来ることはできなかったが、台北に住む妹や弟の大順とともに家族の無事を喜び合った。

台南球場で行われた第二戦の大豊は初回に蔡仲南、4回に余文彬に三振を奪われ、7回は黄土魁に二直と3打数無安打だったが、集まった5000人の観衆に一番の拍手を受けた。

和信・李來發監督はこう言う。

「大豊には引退したら、指導者として是非とも帰って来て欲しい。技術の素晴らしさはもちろんだけど、あれだけ熱心に練習する姿、情熱は何より台湾球界をレベルアップさせる力を持っている。テレビや新聞で大豊のすごさはみんな知ってるし、今日もほとんどの選手が大豊にサインをもらうほど尊敬してます。」

この2試合で400万元(約1500万円)の義援金が集まり、関係者を驚かせた。ユニークなのは選手らの攻守がすべてチャリティーの対象になり、例えば一本の安打に対して、数名かのファンによって「買われ」、その安打が「ファンのもの」になったこと。もちろん全塁打(ホームラン)の値が一番高く、投手の三振にも値がついたという。

球場の外ではベンチ入りできなかったプロ選手がユニホームを着て街頭でチャリティーグッズを売り歩いた。日本プロ野球機構から届けられた王監督のユニホームをはじめとした日本の12球団選手らの200点におよぶチャリティーグッズの販売、テレビを通じて行われたオークションも大盛況だった。

台湾から日本に戻った大豊は甲子園球場で、ナゴヤドームで、震災義援金の呼びかけを行った。そして大豊個人の元にも、セ6球団の有志から、名商大時代の野球部仲間、中日の裏方さん、友人、知人から、そしてファンから次々と義援金が寄せられてくる。シーズン終了後の10月15日、大豊は手元に集まった義援金を手に、埔里の実家に里帰りをした。

実家の被害は壁にヒビが入っただけで済んだものの、埔里の町中は役場や学校が崩れ落ち、その被害は大豊の想像を越えるものであった。瓦礫の除去を手伝い、テント暮らしの被災者と会話を交わしながら大豊は義援金の使い道を思案した。埔里の張鴻銘鎮長との話し合いで電気鍋を800個購入することに決めた。(電気鍋は煮込み料理に使う台湾のポピュラーな家電。)埔里の小学校へは机と椅子を贈った。また、台北市内のチャリティーイベントにも参加した。

大豊はこれらの義援活動を通して、さまざまな人とふれあい、自分と自分の故郷をあらためて深く見つめ直すことになった。支援を申し出てくれた日本の多くの友人知人のありがたみも身にしみた。大豊が台湾と日本の良き交流を願う意志はこれからも変わらないだろう。大豊にとって「台湾は生まれの親であり、日本は育ての親」なのだから。

参考:大阪日刊スポーツ、大阪スポーツニッポン、NHK「サタデースポーツ」、週刊ベースボール、台灣職棒快報、職棒雜誌第212期「會客室 棒球大使─陳大豐」

阪神と大豊

1998年に中日から人気チーム阪神へ移籍しマスコミの取り上げ方も大きく変化した。残念なことに野村監督との関係や舌過事件などが興味本位にあげつらわれ、2000年度の契約更改に際しては「みなさんの前で話をすると言葉の問題から誤解されやすいので、文章を以て発表させていただきます。」と決意表明文を『書かねばならなかった』ことはとても痛ましい。

2000年度契約更改に際し書かれた大豊の決意表明文

みなさまへ 
本日、大豊は球団と来年度選手契約を結びました。
ここに至るまで複雑な経緯がありましたが、球団は私の要求について譲歩する内容を提示してくれましたが、私の要求する内容とは一致しませんでした。
一時は私も日本における野球生活にピリオドを打ち、母国台湾に帰る道を選択したことも事実です。
しかし、野村監督の発言と関係者の助言など熟慮した結果、来年度も阪神タイガースでプレーすることを選択しました。
今回、球団提示はFA宣言に対し、再契約料の支払い、2年契約、出来高制採用、2年目年棒にはバイアウト採用というものでしたが、大豊の原点に戻る、という気持ちを球団に理解していただき、FA宣言なし、1年契約、出来高制度採用という、すっきりとした形の内容で契約を締結した次第です。
金、金、金、のこの世界で金銭上の損得でなく、今度は大豊の誠意を示したかったのです。
野村監督が21世紀初年に全てを賭けるなら、男、大豊は原点に戻り、野村監督に全てを賭ける。
みなさんの前で話をすると、言葉の問題から誤解をされやすいので、文章を以て発表させていただきます。
今後とも大豊に暖かいご支援、ご指導をいただけますよう、お願いすると共に、みなさまへの失礼をお詫び申し上げます。 

平成十一年十一月九日
阪神タイガース
大豊泰昭

*原文のまま*

大豊泰昭と八木裕 2000年9月、阪神甲子園球場で
2000年 阪神甲子園球場 大豊さんと八木裕選手

中日に復帰、背番号60へ

2000年オフ、阪神を自由契約になった大豊は2000年12月5日、中日と契約を結び、入団を発表した。背番号は60。「55番に愛着があったが、心機一転ということで60番を選んだ。空いている背番号の中で、55番を上回る数字を選んだ。」

IBAF第34回ベースボールワールドカップに出場

2001年11月6日から18日に台湾で開催された野球W杯に中華台北チームのファースト・4番打者として全試合に出場する。背番号は55。チームは予選リーグ7勝1敗で決勝トーナメントに進み、準決勝でアメリカに敗れたものの、三位決定戦で日本を破り、見事銅メダルを決めた。大豊は個人の打撃成績は振るわなかったが、南アフリカ戦で打った逆転満塁ホームランの豪快な一撃や、ファースト守備のグラブさばき、中華隊精神領袖(台湾代表のチームリーダー)としての心細やかな振る舞いは台湾野球ファンに強烈な印象を残し、銅メダル獲得の原動力として大きく賛えられた。

第一次的台灣之旅- FIRST TIME IN TAIWAN 2001.11.16-19
初めての海外旅行は台湾で野球観戦! 2001年、台北の天母野球場で野球ワールドカップを観戦 大豊さんが台湾代表として出場...
大豊泰昭 2001年11月、台湾台北天母野球場で
2001年 台湾台北天母野球場

現役引退のコメント

2002年10月16日、名古屋市内の中日ドラゴンズ球団事務所で現役引退を発表した。

「私自身、台湾から日本へ何のためにきたのかというと、それは野球。野球は楽しいということを子供に伝えていくのは、現役にこだわる以上に夢でした。」

「ファンなくして、大豊なし。ファンの声援が私に勇気を与えてくれて、本当に愛されて、非常に幸せです。ありがとうございました。」

大豊泰昭引退セレモニー 2003年3月ナゴヤドームで バッターボックスで一本足打法を披露する大豊
2003年 ナゴヤドーム 大豊泰昭引退セレモニー

 

大豊泰昭引退セレモニー 2003年3月ナゴヤドームで チームメイトと言葉を交わす大豊
2003年 ナゴヤドーム 大豊泰昭引退セレモニー

引退セレモニー当日、大豊さんに友人と贈ったお花

引退セレモニー当日、大豊さんに友人と贈ったお花

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